円高である。それにしても円は驚くほどの柔軟性を持っている。 1985年のプラザ合意以来、円は40%も切り上がった。 しかし日本経済が逆境に見舞われていたときでも、ドルに換算した貿易黒字は減っていない。 だが、これからは違う。今後も米ドルは、ゆっくりと下がり続けるだろう。 先進各国の中央銀行には、これを食い止める力も政策もない。 好調にみえる経済が一皮むけば借金経済であり、砂上の楼閣であることはもはや自明のことだ。 さらに中国でのバブルの崩壊も大きな懸念材料だ。 決定的な瞬間は、今後五年の間に円が急激に上昇し、 人々のマインドが楽観から悲観に切り換わったとき訪れるだろう。 期待感の反転がもたらす影響は大きく、しかも早い。 噂が噂を呼び、株式市場はたちまち暴落する。 ひとたび日本の株式市場が崩壊すれば、それが世界の市場を直撃する。 一連托生の世界である。 それにしても次の恐慌は、インフレ恐慌なのかデフレ恐慌なのか? 1923年のドイツのハイパー・インフレ的大混乱になるのか、 1920年のアメリカのデフレ的崩壊になるのか? という問題がある。 ハイパー・インフレ的恐慌は、財政赤字の極限で起きる国家財政破綻に起因する。 私の持論はこのインフレ恐慌である。 一方、投資、消費、および世界の貿易が極度に低下する信用の収縮が発生すれば、 膨大なマネー・サプライの増加によって経済を活気づけようとする政府の努力も、 物価の崩壊を防ぐことはできない。すなわちデフレ恐慌である。 バトラ博士はおそらくこちらかもしれない。 むろん歴史的に見ても、アメリカはいまだかってインフレ恐慌を経験したことはない。 しかし、 少なくとも「搾取的資本主義」が花火のように夜空に散る歴史的エポックには、 何が起きても不思議はない。 およそ経済の流れを歴史的に分析しようとするとき、 そのアプローチ法は @
周期的規則性 A
ユニークな個人の出現や事象の発生――のどちらかからアクセスすることになる。 いずれの分析方法にも長所と短所がある。 そこに分析者の思い込みやバイアスがかかってしまうからだ。 しかし、もしも歴史の推移の中に周期的規則性を見出すことができれば、 分析者は過去の説明だけでなく未来の予測も可能になる。 周期説は科学として説得力を持つことになる。 私はバトラ博士の周期説を信じている。 そして博士のすごいところは、ふつうなら相容れない二つのアプローチを融合なさっていることだ。 すなわち博士は、周期性を重く見ながらも 「恐慌は為政者の社会政策によって阻止できる」とおっしゃっている。 ユニークな個人の政策によって、世の中が変わる――とおっしゃっているのだ。 つまり「過度に富が集中するのを阻止できる政策」を打ち出せる個人の登場を、 博士は待たれている。 それはサーカー師の「社会循環論」に言う、“知識人”リーダーの登場である。 そしてそういう人物が、極東の日本から現われる――と期待しているのである。 私たち日本人こそ、心しなければなるまい。 平成十六(二〇〇四)年七月 ラビ・バトラ著『2005〜2010 世界同時大恐慌―資本主義崩壊、光は極東の日本から』 あとがき より転載
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