クマケノ ヒカリ 三毛入野命 に 甘露 琳聖太子 の響きあり
平和の象徴 <勝間 諫鼓踊> の 伝承は その証左 JR岩徳線の駅名に「周防」と名が付くのも 周防の拠点が 周防国府としての「防府」ではなく 古代 「周防國造在所之地」 にあった ことの 余波である 光市古周防の周防小学校の校歌に “歴史を秘めて 千年の 政治文化の 開拓地”とあるように 国号『日本』最初の元号である 645年7月17日に始まる「大化」の頃には 既に現存していたと推定される さらには 御祭神が 日本の 初代天皇とされる 紀元前660年 神武天皇の兄と母 三毛入野命 と 玉依姫命 であることから 鎮座以来二千年近くも経っている可能性がある なお 三毛入野命について 『古事記』
では 事績は何も記されずに 「波頭を踏んで常世の国に渡った」 とだけ記されている 時代の大命題は 地域創生であるが 故きを 温ねれば 古代日本の 国造の起源は
国造であることの 新しきを 知る ヤマト政権支配であった 国造 つまり 地方の「國の御家つ子」の性格も 大化の改新以降は 天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている この改革によって 豪族を中心としていた政治から 天皇中心の政治へと移り変わったとされており 日本最初の元号「大化」から 『日本』という国号と『天皇』という称号の 使用が始まったとされる つまり ヤマト王権の行政区分の1つである 国の長を意味する とされた 周防(周芳)氏が 大王から与えられた姓 凡直姓国造 の 国造 と 初代周防国造としての 国造 百四十四ヵ国のうち 百八番目 加米乃意美(第15代応神天皇期)とは 根本的に 国造の誕生起源と 国造の政治的意味が異なることに 注意を要する 周防氏は 初め 周芳氏 と記されていた すは の 起源は すわ にあるようだ すわ とは 諏訪 のことである 諏訪神社と 熊毛神社との 縁についての リポートに拠ると 先祖に縁のある地の 国造に 加米乃意美命が 復帰したと云える そうである 地域創生事業の成功を確かなものにするためには 以上の史実や 千年村プロジェクトにおける「郷」の由緒 等を 踏まえる必要がある☆ 熊毛郡(17郷) ※ 玖珂郡10郷は 721年 養老5年 熊毛郡から分立 吉敷郡(10郷) 佐波郡(8郷) 都濃郡(7郷) 大島郡(3郷) からも 熊毛郡の 惣村の勢力 <クマケノ ヒカリ> を 確認できる が 近代日本の中核をなした 元勲諸老 伊藤博文の産土神としての圧倒的な存在感が 本来 「大社以上の格」を有するに値する由緒として 今後の郷土の発展のための 大変重要な観光資源の気付きになるものと考察して筆を執る 父の日に 郷里の父である 「内閣の父 伊藤
博文 公」 を参詣しての記録でもある 手洗川附近の絵図(御国廻御行程記より) (撮影: 前島 おさむ) 【延喜式神名帳】熊毛神社 周防国 熊毛郡 字勝間に鎮座 『注進案』によれば、周防一宮厨子大神といい、 称徳天皇の時、勝間村清霊丘の松の枝に鏡があって毎夜光を放ち、 当山の鎮護大戸道尊と名のる老翁が一人現れ、この鏡を神光霊照鏡と号した。 この時、鏡より大戸道尊と一礼分身の八幡大神という一人の童子が現れ、 此の山を亀井山と唱え、社殿を建つべし、 そうすれば永く宝柞延長国家安全を守るべしと告げ飛び去ったという。 その後里人により社殿が建立され、また八幡宮の本地は阿弥陀仏の化現であるというお告げにより、 新たに神光霊照鏡守護の堂場として神光院が建立された。 その後、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、 当杜の棟をみていかなる名称かと秀吉が里人に聞いた際、羯磨八幡宮と答えたという。 戦争に出る時、縁起が良いというので祈願し、境内の竹林から旗竿十二本を切った。 帰陣の際、秀吉は再び寄り、「寺社由来」によれば 神馬一疋、太刀一腰、箕六本、八幡御幸の絵、両部の曼茶羅、百石の判物を寄付したという。 この時、諌鼓踊と名づけた踊を奉納したという。 これが七年ごとの秋季例祭、10月11日に現在行われるものである。 踊りの種類は次のような構成からなっている。 一、こうかん 構成負は次のとおり。 手木男一人 旗持男一人 ほら貝ふき男一人 杖術者男二人 大聖男一人 小聖男一人 音頭難男二人 踊子男子十二人 (7〜12歳の長男) 周防國 一宮 熊毛神社 本殿 (撮影: 前島 おさむ) 周防國 一宮 熊毛神社 拝殿 (撮影: 前島 おさむ) 毛利本家 家紋 一文字三星 (撮影:
前島 おさむ) 周防國 一宮 熊毛神社 鳥居の文字「防州熊毛郡羯磨厨子八幡宮華表銘日」 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年10月10日 例祭 毛利本家 家紋 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年10月10日 例祭 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年10月10日 例祭 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年10月10日 例祭 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年10月10日 例祭 (撮影: 前島 おさむ) 周防國 一宮 熊毛神社 例祭 御旅所祭 (撮影: 前島 おさむ) 史跡 周防国造在所之地≠フ碑 (撮影: 前島 おさむ) 史跡 周防国造在所之地≠フ碑 に隣接して 周防小学校 がある(「小周防」の旧名は「古周防」) (撮影:
前島 おさむ) 豊臣政権五大老 広島の始祖・毛利輝元 1589(天正17)年 陰暦4月15日「広島」築城二年後の記録として 周防國本部熊毛神社が一宮であることが確認できる 防長寺社由来 第二巻 昭和五十七年十月二〇日発行 山口県公文書館 P273 (調査: 前島 おさむ) 防長寺社由来 第二巻 昭和五十七年十月二〇日発行 山口県公文書館 P274 (調査: 前島 おさむ) 防長寺社由来 第二巻 昭和五十七年十月二〇日発行 山口県公文書館 P269 (調査: 前島 おさむ) 山口県指定民俗文化財(無形)の諫鼓踊は ふるさと かわら版 平成20年冬号(No.25) 『熊毛神社と諫鼓踊』に記載のとおり 江戸時代においても 広島の始祖・毛利輝元の尊崇が厚かった ことが窺えた 因みに 毛利輝元は 琳聖太子を祖先とする 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (撮影: 前島 おさむ) 山口県指定民俗文化財(無形)の諫鼓踊(動画:勝間諫鼓踊保存会) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (動画撮影:
前島 おさむ) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (撮影: 前島 おさむ) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (動画撮影:
前島 おさむ) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (動画撮影:
前島 おさむ) 平成28(2016)年4月9日 勝間 諫鼓踊 (撮影: 前島 おさむ) 熊毛神社境内 正月初詣の賑わい (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社境内 (撮影:
前島 おさむ) 毛利本家 家紋 一文字三星 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社境内 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社境内 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社境内 (撮影:
前島 おさむ) 毛利本家 家紋 一文字三星 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社境内 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社境内 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社境内 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛神社は 『延喜式』式内社 玄武は妙見の象徴 (撮影: 前島 おさむ) 平安時代に編集された 延喜式神名帳 に記された神社を「式内社」と云う (撮影: 前島 おさむ) 広島城がさらに完成に近づいた姿をみせるようになるのは翌文禄元年(一五九二)のことである。 秀吉は自ら朝鮮出兵の指揮を執るため 三月二十六日京都を出発して九州名護屋に向かう途中の四月十一日、広島城に到着した。 熊毛神社は 勝間八幡宮であり 豊臣秀吉ゆかりの神社でもあることから 豊太閤 と 今太閤 の相乗効果を観光事業に反映させることが可能である 『手洗川親水公園』 手洗川の由来の解説にある 亀井山 羯磨八幡宮 (撮影: 前島 おさむ) 右後方に見えるのが亀井山 (撮影:
前島 おさむ) 熊毛はその名のとおり 古来よりお米の名産地 防長四白は「米・紙・塩・ろう」 『手洗川親水公園』では 手水川の由来を再現している (撮影: 前島 おさむ) 豊臣秀吉家紋 太閤桐 (撮影: 前島 おさむ) 親水公園の入口は とっても大きな千成瓢箪が出迎えてくれる (撮影:
前島 おさむ) 石橋を渡ってから親水公園に入る (撮影:
前島 おさむ) 手洗川親水公園 上方からの全景 (撮影:
前島 おさむ) 『手洗川親水公園』の欄干の図柄は 豊太閤の千成瓢箪 (撮影:
前島 おさむ) 周防國一宮 熊毛神社 手水川源流にある手洗川砂防堰堤 (撮影:
前島 おさむ) 周防國一宮 熊毛神社 手水川源流にある手洗川砂防堰堤 (撮影:
前島 おさむ) 周防國一宮 熊毛神社 手水川源流にある手洗川砂防堰堤 (撮影:
前島 おさむ) 周防國一宮 熊毛神社 手水川源流にある手洗川砂防堰堤 (撮影:
前島 おさむ) 周防國一宮 熊毛神社 手水川源流 (撮影:
前島 おさむ) 周防國一宮 熊毛神社 手水川源流 (撮影:
前島 おさむ) 周防國一宮 熊毛神社 手水川源流 (撮影:
前島 おさむ) 『手洗川親水公園』の欄干の図柄は 豊太閤の千成瓢箪 (撮影:
前島 おさむ) 『手洗川親水公園』の欄干の図柄は 豊太閤の千成瓢箪 (撮影:
前島 おさむ) JR岩徳線 勝間駅から 熊毛神社 を望む (撮影: 前島 おさむ) さらには 神籠石 石城山 神籠石式山城 石城築城の 古代文明の拠点の由緒を広く知らしめることで 地域の宝の原石を研磨することになるものと考察する 長州ファイブは海外に広く知られているので インターネット地球時代における 外国人観光客の獲得にも大いに貢献できるのではないだろうか 遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右) そこで 長期的国際観光地戦略についての思案である 長州ファイブの一人 井上 勝(野村弥吉) は 鉄道の父であることを後世に残す目的も踏まえて 岩徳線を < SLやまぐち号 > に負けないぐらいの観光列車にすることで 道が拓けてくる D51形式(デゴイチ)周南市徳山動物園入口 (撮影:
前島 おさむ) 岩国錦帯橋空港の開港が <クマケノ ヒカリ> の地を 多くの観光客が訪れることに有利に働くように 広島−岩国−熊毛 の流れを創るためには クマケノ ヒカリ を国際観光路線で展開することが重要である 伊藤博文公の生家 茅葺き屋根 (撮影:
前島 おさむ) なぜなら 広島発祥の『いろり山賊』3箇所6店舗は 伊藤博文公の生家 茅葺き屋根に似た 国際社会に通用する クマケノ ヒカリ だからである そのためには 目的地への移動手段として 交通の利便性を高める必要がある 交通網の整備としては JR勝間駅 − 熊毛IC − JR岩田駅と観光スポットを 観光バスでつないで 手焼き 周防 藤公煎餅 を御土産として広めることが 文化財的に重要となる 近代日本 長州ファイブを冠するツアーの主題は 伊藤博文公との絆を深める旅であることが真髄だからである 手水川の由来に因んで整備された『手洗川親水公園』で (手洗川上流の様子は手洗川砂防堰堤のblog参照 砂防堰堤位置図) 豊太閤と同じく身を清めてから参拝する風習を郷土文化とするのが好いだろう 2. 『手洗川親水公園』に熊毛神社の幟を立てること 3. 伊藤公資料館から熊毛神社までの道のりを参道として 散歩道の整備をすること 4.その際 参道の地域では千成瓢箪を栽培して 太閤秀吉の瓢箪水筒を御土産にすること 5.太閤秀吉の瓢箪と 手焼き 周防 藤公煎餅 を熊毛神社の参拝記念とすること 6. 旧熊毛郡産のお米を クマケノ ヒカリ と命名する 7.熊毛のお米は ブランド米 クマケノ ヒカリ の商標で統一を図ること 8. その際、 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い成立した熊毛郡と玖珂郡の2町61村 での事業展開とすること 熊毛郡 26村一覧 玖珂郡 2町35村一覧 9. ブランド米 クマケノ ヒカリ を瓢箪に入れて保存する風習を文化とすること 10. クマケノ ヒカリを使った 瓢箪飯を開発して郷土料理にすること 11.千成瓢箪の栽培、瓢箪水筒の制作、瓢箪飯の作り方を 旧熊毛郡の学校教育に取り入れること 12.『熊毛神社と諫鼓踊』に記載の 山口県指定民俗文化財(無形)の諫鼓踊の発信を強化すること 13. クマケノ ヒカリ 観光を促進させるために JR勝間駅 熊毛IC JR岩田駅 に レンタカー と コミュ二ティサイクル と 観光タクシー を整備すること 14. 魅力溢れる クマケノ ヒカリ 観光マップを制作 配布すること 15. ゴルフ観光として 周南カントリー倶楽部 の発信を強化すること 16. 光市農業振興拠点施設 「里の厨」 は「伊藤博文公 里の厨」に名称変更すること 17. 光市「伊藤博文公 里の厨」に ブランド米 クマケノ ヒカリ の本部を設けること 18. 「伊藤博文公 里の厨」で 周防猿まわしの会 の定期公演を行うこと 19. 地場産業観光として <降松七夕伝説 甘露> カンロ飴 の発信を強化すること 20. 上記の御土産は 手始めに 岩徳線の車両内 JR勝間駅 熊毛IC 伊藤博文公 里の厨 JR岩田駅 等 で販売強化してみるのが好い 21. 生誕地から里の厨までの一帯や参道において 伊藤博文公の生家 藁葺き屋根を模した宿泊施設を 地域の宝として整備すること 22. 石城山に 神籠石を冠して 神籠石 石城山 とし 第二奇兵隊本陣 の発信を強化すること 23. 下松市 笠戸島を <佐々木小次郎の島 笠かけの松 笠戸島> と 長岡外史 の発信を強化すること 24. 交通安全のまち 下松 を発信強化すること 以上 < クマケノ ヒカリ > 国際観光地戦略の素案について述べてきたが 要約すると クマケノ ヒカリ 国際観光地戦略事業の柱は 周防國一之宮 熊毛神社 参拝の賑わい創出を軸に展開する 柱その1 そのために 道の駅 豊太閤と今太閤 の整備が必要 伊藤博文公 里の厨の クマケノ ヒカリ の観光拠点 〜 史跡 周防国造在所之地の碑 〜 熊毛神社参道整備 ブランド米 クマケノ ヒカリ 本部と支部の設立および事務局設置 柱その2 2018年 明治改元 150th アニバーサリー 歴代総理全員集合プロジェクト 内閣の父 伊藤博文公に参詣 それから 熊毛神社に参拝 熊毛神社前で記念写真 柱その3 その記念列車は 新橋駅から出発して 歴代総理は郷の最寄り駅から乗車 岩田駅までの旅程 (暫定) プレミアム記念列車の運行 〜 プレミアム記念列車は その後 岩徳線で観光列車として利用 柱その4 いろり山賊の発信強化策 柱その5 直木賞作家に挑戦状 神籠石 石城文明の謎を解け! 競演シリーズで集客効果を狙う! 柱その6 甘露 琳聖太子 の伝承を大切に 日本古代の文明開化としての クマケノ ヒカリ を発信強化! 柱その1の詳細 熊毛神社 JR勝間駅周辺に 『道の駅 豊太閤と今太閤』を整備する 豊太閤と今太閤のそれぞれのシンボルの図柄は 千成瓢箪と千円札にする 道の駅の名物として 手焼き 周防 藤公煎餅 瓢箪飯 山賊むすび うどん そば 等を 地産地消で展開していくため 若手経営者の育成 必要な農作物の作付けを開始し 未来創造型の6次産業として 農業支援 就農支援 定住支援を抜本的かつ積極的に行っていく 柱その6の詳細 『記紀』に記された日本神話に「天孫降臨」があるが 古代中国にも「甘露」の伝承がある 甘露とは 天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体 光市発祥の「カンロ飴」の由緒であり 後世 王者が高徳であると これに応じて天から降る ともされた 転じて中華王朝の年号 三国時代 魏の高貴郷公曹髦の年号(256年〜260年)もそのひとつ 甘露 (漢) : 前漢の宣帝劉詢の年号(紀元前53〜紀元前50) 甘露 (魏) : 三国時代、魏の高貴郷公曹髦の年号(256年〜260年) 甘露 (呉) : 三国時代、呉の末帝孫皓の年号(265年〜266年) 甘露 (前秦) : 五胡十六国時代、前秦・苻堅の年号(359年〜364年) 甘露 (高昌) : 高昌の麴光の年号(525年頃〜530年頃) 甘露 (東丹) : 東丹国の東丹王耶律倍(やりつばい)の年号(926年〜936年) つまり 広島の始祖・毛利輝元の祖先である 琳聖太子は 甘露 伝承の皇子なのである 15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば 琳聖太子は大内氏の祖とされ 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸 聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおちあがた)を賜ったという 周防国「下松」(くだまつ)の由来に 推古天皇のころ(西暦595年頃)鷲頭庄青柳浦の松の木に大星(一説には、北辰星)が降り 七日七夜 光輝き 「百済の皇子がこの地へやって来る」とお告げをした とある 人々は社を建立して 大星を祀った 鷲頭山 降松神社(下松市大字河内) 妙見宮鷲頭寺(下松市中市) 金輪神社(下松市北斗町) 降松神社 それから3年後に 百済(346年
– 660年)からやってきた皇子が 琳聖太子 朝鮮半島の百済の王族で 第26代聖明王(聖王)の第3王子で武寧王の孫とされる 538年(戊午) 第29代欽明天皇期 百済から倭(古代日本)への仏教公伝は 日本古代の文明開化として 非常に重要であり 「星が降った松」が「降り松」となり「下松」となったという説と 百済と交易する港の意味の「百済津」という説があるが 日天寺(下松市)には 山口県下唯一の白鳳時代の仏像が伝わる外 周防国下松市宮ノ洲古墳(桂木山、宮ノ洲山ともいう 所在地:山口県下松市洲鼻)からは鏡が出土している 「怒龍の松」 という松があり 琳聖太子の墓とも 云われている 大内文化である 蹈鞴製鉄の余波 山口七夕ちょうちんまつり にみられるように 降松伝説こそ 七夕伝説の発祥 である 蹈鞴製鉄は 中国山地の砂鉄取りによる 鉄穴流し を盛んにし 太田川河口デルタへの 「広島」 築城 太田川 「広島」 文明の 足掛かり となった 広島大学 東広島キャンパスは 大内氏が築城した 鏡山城跡の 鏡山公園 に隣接している 中国の三国時代に華北を支配した王朝 魏(ぎ、拼音:Wèi、220年 - 265年)は 45年間しか続かなかった王朝であるが 魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』『三国志演義』など)などで後世に伝わる 『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)』『隋書』倭国伝 等の中国の史書に記されている倭国の王 卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 248年頃)は 邪馬台国に都をおいていたとされるが 魏志倭人伝によれば 「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南 大海の中に在る 山島に依って国や邑(むら)を為している 旧(もと)は百余国あった 漢の時 朝見する者がいた 今は交流可能な国は三十国である。……」 などとある 卑弥呼を女王とする邪馬台国は その中心とされ 三十国のうちの多く(二十国弱 =
対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという さて 神籠石 石城文明である 石城山は 三国志城なのか? 邪馬台国 ヤマト王権 と 決して無縁ではなかったはずである 古代周防 鳥乃海之図 (つづく) 伊藤博文公 里の厨 (撮影:
前島 おさむ) 伊藤公資料館と里の厨は一体的に整備の必要あり (撮影:
前島 おさむ) (撮影:
前島 おさむ) (撮影:
前島 おさむ) 伊藤公資料館 伊藤公学習帳の表紙より転載 2018年は 明治改元 慶応4年 陰暦9月8日(1868年10月23日)から150年を迎えることもあって 2015年のNHK大河ドラマが 『花燃ゆ』に決定するなど 明治維新 The 150th アニバーサリーカウントダウンも にわかに始まりつつあるようである この千載一遇の機を捉えて 既述の観光戦略の整備事業に 早急に着手して下さることを祈念する次第である 近代日本の文明開化の舞台として知られる この地 熊毛は 古代日本の文明開化の舞台でもあった 魅力溢れる地である 州都広島として 中国地方のみならず中四国経済のエンジンを目指しての 国際観光地広域戦略の必要性から 観光空白地に <
クマケノ ヒカリ 構想 > を提唱する 平成26(2014)年6月15日 日曜日 父の日 に 平成29(2017)年1月 1日 日曜日 元旦 に 更新 平成30(2018)年3月16日 金曜日 に 更新 広島市長 (候補者) 前 島 お さ む 広島おさむる会 会長 詩人 測量家 “攻めの防災” 提唱者 修士(工学)(東京電機大学)(1998) twitter https://twitter.com/ousamaosamu facebook https://www.facebook.com/ousamaosamu |